『日本古典文学総復習』97『当代江戸百化物・在津紀事・仮名世説』

だいぶまた間が空いてしまった。前回からすぐに読み始めたのだが、この間長旅に出たり、世間の10連休なるものがあって、なかなか落ち着かなかったためにこうなってしまった。その10連休も終わり、やっと落ち着いた日常が帰ってきたので書く気になった。
さて、今回は江戸の随筆。その中でもいわゆる「人物逸話集」だ。有名どころでは『近世畸人伝』がある。この「畸人」というのは言ってみれば「おかしな人」という事になるが、けっして「異常な人」ではない。むしろ「優れた人物」ということになる。世間にいる「優れた人物」を紹介するという所にその主意があった。そして「優れた人物」は多にして世間の常識からはみ出す。江戸の人物逸話集はこうした世間の常識からはみ出した人物たちを温かい目で見、記録した作ということになる。具体的に各作品を見ていくことにする。

「当代江戸百化物」

宝暦八年(1758年)、馬場文耕という人物の作。下級武士の出身で後に講談師となり、講釈中に九代将軍徳川家重の治世や世事を誹謗し、幕政に対する批判を繰り返し、結果打ち首になった人物。この作品はそうした幕政に対する批判ではなく、市井の人物を語った人物逸話集だ。解説にあるように「今風に言えば『お騒がせ』人物を、士庶とりまぜて二十七名、二十二章に記述」したものだ。ここに登場する人物たちはそこらにいそうな人物ばかりだ。こうした人物を「化物」としながらも親しみをもって描いている。おそらく講釈の種本として書かれたものだという。元はもっと大部な作であったようだが、その一部のようだ。

「蓬左狂者伝」

尾張藩士堀田六林という人物が記した、名古屋城下における奇人・狂人の行状記である。ここでも市井の人物が取り上げられている。もちろんここに取り上げられている人物たちは常識人ではない。まさに奇人・狂人である。しかし、そこにある価値を見ている所が面白い。江戸の常識はもちろん儒教道徳ということになるが、いわばそこからはみ出した人物たちを取り上げている。これは一種の現状批判になっている。金竜道人という人物が序文を書いているが、そこにこんな趣旨のことが述べられている。すなわち、「今は世俗に媚びる人物ばかりで、そこからはみ出そうとする人物は少ない。しかし、そうした人物こそが真に孔子の徒となる資格がある。」と。

「落栗物語」

これはこれまでのものと違って公家や文化人に対する記述が目立つ作品。筆者は定かでないようだ。時代的には豊臣秀吉の時代から寛政期までを扱っていいる。もちろん一種の人物記となっている。実際に見聞した事実や逸話がほとんどのようだが、中には作り話的な話があるようだ。さて、この「落栗物語」という題名は「そのまま放置しておけば朽ち果ててしまうが、見つけて拾えば美味しく食べられる」ことからつけられたという。なるほどうまい命名だ。人物もそうである。歴史的にも、また今でも忘れ去られていった多くの優れた人物たちがいたはずだ。そんな人物たちを発掘するのが、この人物記である。

「逢原記聞」

これは「高士逸客」に関する逸話聞書集。「高士逸客」などという語彙は現在では滅多に聞かないが、語彙だけでなくこうした人物も滅多に見ない。しかし江戸においては優れた、志の高い、世間に阿ない人物たちが存在した。ここに取り上げられているのは概ね四十八名。有名な学者も取り上げられているが、筆者の聞書だけに後に有名になった人物ばかりではない。他には画人や武人も取り上げられその逸話は面白い。特に有名な池大雅の逸話は多く紹介されている。いずれにしても優れた人物たちは常識からはずれた人物たちだった。

「在津紀事」

広島藩の藩儒頼春水という人物が大阪に滞在していた時の多くの文人との交流を記録したもの。このころの大阪はまさに文化の中心であった。漢詩人のサークルである「混沌社」の活動を中心に描かれているが、漢詩人ばかりではなく、国学者・医者・書家・画家などその多士済々ぶりは当時の大阪がまさに文化の中心であったことをうかがわせるに充分である。記事の一つ一つは短く、百八十九章からなっている。

「泊洦筆話」

「泊洦」は「さざなみ」と読む。筆者清水浜臣は泊洦舎と号した国学者にして歌人。賀茂真淵の高弟村田春海の門人。終生県門古学顕揚に努めたという。本居宣長とは一線を画した。その賀茂真淵顕彰の意をこめた逸話集がこの書である。また荷田春満の顕彰にも努め、その碑文の紹介は現在でも史料的価値があるという。また、和歌についての知見も多く語られている。

「仮名世説」

太田南畝による随筆。題名は『世説新語』のもじり。『世説新語』は古代中国の著名人の逸話集だが、その日本版ということだろう。日本の優れた人物たちを『世説新語』にならって紹介している。もちろんここに登場する人物は文化人と呼ばれる人々が多いが、下巻には変わった人物を紹介するエピソードがあって面白い。例えば妻との古典についての言い争いから家出をして帰らなかった老人の話などだ。太田南畝の関心の広さがうかがえる。

こうしてみてくると江戸の随筆はもっと読まれてもいいと思う。人物に関する関心はゴシップコンシャスとして現代にもあるが、こうした人物誌はその時代の様相を示してくれていると思う。現代にも面白い人物誌はあるのかもしれないが。

2019.05.06

この項了

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