win11PC上の音楽ファイルをiPhoneに

娘からPC上の音楽ファイルをiPhoneにもってこられないかという依頼を受けた。

パソコンはwin11だ。

iTunesでやろうとしたがはまくいかない。WIN11の場合は

Windows用の「Apple Music アプリ」、「Apple TV アプリ」、「Apple デバイスアプリ」を使うことになったようだ。

インストールはhttps://support.apple.com/ja-jp/118290からいける。

必ず三つインストールする。

まず音楽ファイルの管理をApple Music アプリで行う。

ここに音楽ファイルや音楽フォルダを追加する。

左メニューの上部にある…メニューをクリック
現れるメニューからライブラリィを選択するとできる。

なお、ここではCDからの取り込みはできない。Windowsメディアプレイヤーを使おう。
それをApple Music アプリに取り込めばいい。

PC上の音楽ファイル移動はApple デバイスアプリで行う。

Apple デバイスアプリを起動し、iPhoneをUSBケーブルでつなぐ。

左メニューからミュージックを選択
右メニューの一番上をチェック
同期の欄の下を選択
オプションの欄は選択しない
その下でアーティスト・アルバム等を選択
さらに下の移動させたい物を選択
そのうえで右下の適用をクリック
その際バックアップを停止すること。

ただ、注意しないといけないのは「同期」という点であり
一台のPCとしか同期ができないという点だ。

ただ単に音楽ファイルを移動するだけなのに実に面倒だ。
写真は簡単にできるのに音楽ファイルができないのは著作権の観点からだろうか。

単純なファイル操作でやるには専用の有料ソフトが必要なようだ。

やれやれ。
2024.04.08

日本古典文学総復習続編22『芭蕉文集』

はじめに

今回は『芭蕉文集』である。

この書には芭蕉37歳から逝去直前までの文章69篇が年代順に並べられて収められている。中身は数行の短い文書や書簡、「おくのほそ道」を代表する紀行文など、さまざまである。
それをここでは便宜上4種に区分けして読んで行きたいと思う。以下である。

  • その一 断簡・短文 30篇
  • その二 紀行文等 7篇 (厳密には紀行文ではないが「幻住庵の記」などを含む)
  • その三 書簡 28篇
  • その四 遺書 4篇

そしてそれぞれについて小生なりの読みを語りたいと思うのだが、その全てを紹介するわけにもいかないのでこの分類から幾つかを選んで語りたいと思う。

その一 断簡・短文

この類は素晴らしいものが多いのだが、ここでは以下の2篇を取り上げてみたい。参考に本文も示しておく。(番号は本書の番号)

「雪丸げ」と題された 四十三歳の作

 曾良何某は、このあたりに近く、仮に居をしめて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。我くひ物いとなむ時は、柴折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来たりて軒をたたく。性隠閑を好む人にて、交り金を断つ。ある夜、雪を訪はれて、
               ばせを
きみ火をたけよき物見せん雪丸げ

ここでいう曾良何某は「奥の細道」の旅に同行した河合曽良のことである。芭蕉に入門まもない頃の俳文。この頃芭蕉は深川の芭蕉庵に暮らしていた。いわばわび住まいだが、その生活ぶりが窺われる。曽良はよっぽど芭蕉に心酔していたのだろう、なにくれと芭蕉の面倒をみていたようだ。芭蕉もすっかり信頼し、共にいることに喜びを感じていたようだ。それが句によく表れている。「雪まるげ」とは今で言う「雪だるま」だろうか。子供のような気分が窺えて、楽しい句だ。

「秋の朝寝」と題された 五十一歳の作

 あるじは、夜あそぶことを好みて、朝寝せらるる人なり。宵寝はいやしく、朝起きはせはし。
おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり  翁

これは芭蕉最晩年の俳文。大阪での半歌仙興行の翌朝の吟。その半歌仙の発句と脇は以下。

秋の夜を打ち崩したる咄かな 翁
月待つほどは蒲団身に巻く 車庸

その脇(俳諧の二句目。亭主が詠むことになっている。ちなみに発句は客が詠む、ここは芭蕉)を詠んだ車庸が「朝寝」をしている亭主だ。その朝寝坊している亭主ぶりに客芭蕉はなんとも心楽しいと言っている。晩年も変わらず心優しい芭蕉である。

その二 紀行文等

その梗概

紀行文としてはいわば滞在記も含めると以下の文がある。(番号は本書の番号)まずはその梗概を示しておく。

  • 七 野ざらし紀行 四十一歳〜四十二歳・四十四歳完成
  • 一五 鹿島詣 四十四歳
  • 一六 笈の小文 四十四歳〜四十五歳・没後門人編成
  • 二三 おくのほそ道 四十六歳・五十一歳完成
  • 一九 更科紀行 四十五歳
  • 二八 幻住庵の記 四十七歳
  • 三五 嵯峨日記 四十八歳

「野ざらし紀行」は貞享元年8月、門人苗村千里を伴って深川の芭蕉庵を出立、東海道を上って伊勢・伊賀・大和を経て、以後は単独で吉野、9月下旬に美濃大垣、桑名・熱田・名古屋から伊賀上野に帰郷して越年、春の大和路をたどって京都へ出て、近江路から江戸への帰路のおよそ8ヶ月の紀行を題材とする作品。

「鹿島詣」は貞享4年8月、鹿島神宮に参詣し、芭蕉参禅の師といわれる仏頂和尚を訪ねて1泊し、雨間の月見をした短い旅の記録。

「笈の小文」は貞享4年10月に江戸を出発し、尾張、伊賀、伊勢、吉野、奈良、大坂、須磨、明石などを巡った7か月の旅の間に記録した断簡を弟子の乙訓が死後まとめたもの。

「おくのほそ道」は最もまとまった紀行文。後述。

「更科紀行」は貞享5年8月に門人越人を伴い岐阜を出発し、木曾街道を経て夜に更科に到着し、姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へ帰るまでの紀行文。

「幻住庵の記」は、紀行文とはいえないが、一種の滞在記。「おくのほそ道」の旅を終えた翌年の4月~7月(陽暦の5月~9月)までの4か月を滋賀県大津にある国分山の幻住庵に暮らした。その時の記録。

「嵯峨日記」は、これも紀行文とは言えないが、元禄4年4月18日から5月4日まで、京都嵯峨の落柿舎に滞在した時の日記。芭蕉の滞在生活や、門下生との交流が記されいる。

「おくのほそ道」について

さて、これらの紀行文のうち最もまとまったものであり、古来人口に膾炙した作品はなんと言っても「おくのほそ道」である。ここで私なりの読みを語りたいと思う。

どうもこの作品が芭蕉を漂白の俳人というイメージを作り上げたように思う。確かに芭蕉は漂白の孤独な詩人を気取ってみたかったに違いない。しかし実態は必ずしもそうではないと思うのだ。また、この作品は現代的な意味でいう紀行文的なものでは決してないように思える。例えば有名な以下の句。

 荒海や佐渡によこたふ天の川

この句を単独で読むと、いかにも男性的な日本海の風景が思い浮かぶし、それを眼前にしている孤独な芭蕉の姿が思い浮かぶ。しかし、この句の前に以下の叙述がある。

 (前略)この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず

この「荒海や」の句の前にある「文月や」の句は七夕のことを言っている。一日前だけれどもすでになんとなく「常の夜」とは違うと。織姫と牽牛を隔てた「天の川」、それが荒海の向こうにある佐渡との間に横たわっていると。つまり「佐渡」は実景として見えているのではなく、悲痛な島流しの歴史を持つ島として見えている。この句は頭注で編者の言う

 実景の忠実な描写ではなく、旅懐と史的懐古とによる心象風景として構成した吟

なのだろう。この部分の地の文にはこの地の情景描写はひとつもない。

このことはある意味この作品の特徴とも言えそうだ。つまり紀行文というと実景の描写を期待するが、実景の描写が意外に少ないように思われる。あったとしてもそこに芭蕉ならではの特徴がある。以下は少ない実景描写の代表的な部分である。古来芭蕉の名文の誉が高い部分だ。

 そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、 浙江の潮をたたふ。島々の数を尽して、欹ものは天をゆびさし、伏すものは波にはらばふ。或は二重にかさなり三重にたたみて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯たるがごとし。そのけしき窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祗のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、ことばを尽さむ。
 雄島が磯は地つヾきて海に出たる島なり。雲居禅師の別室の跡、坐禅石などあり。はた、松の木かげに世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵しづかに住なし、いかなる人とは知るられずながら、まづなつかしく立ち寄ほどに、月、海にうつりて、昼のながめまた改む。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
 
松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

 予は口をとぢて眠らんとして寝ねられず。旧庵をわかるる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きて、今宵の友とす。且つ、杉風・濁子が発句あり。

どうであろうか?芭蕉はこの松島の絶景を描写するに漢詩文を援用している。もちろん芭蕉は実際の漢詩文に登場する景色を見たことはない。あくまで文章の上で知っているに過ぎない。「洞庭・西湖」「浙江」を登場させ、杜甫や蘇東坡の詩(「児孫愛す」・「美人の顔を粧ふ」)を援用しているのだ。これが芭蕉の情景描写の特徴と言える。他の所の情景描写でも歴史的な故事や歌枕などを紹介するに過ぎないように思える箇所が多い。しかもこの絶景を目の前のして「口をとぢて」と言って句作をしていない。句は同行者曾良のものだ。この作品は、芭蕉が色々な場所を訪れ、その景色に感動し、句作をしていく記録では、けっしてないということだ。芭蕉のこの作品を近代的な「写生」といった概念で読むこと自体が無理なのかもしれない。

では、この旅はどんな旅だったのか。この作品は実は実際の旅から数年経ってからまとめられたと言われている。つまりは実際の旅の記録そのままではない。それでもこの作品からも窺えるのが、まずはとてつもなく長い旅だったことだ。そして一つところにかなり長居をしている旅だと言えることだ。この旅は4月から9月まで約半年にわたっている。しかも例えば4月には那須の黒羽に13泊もしているし、5月には出羽尾花沢に10泊、6月羽黒山に7泊・酒田9泊、7月金沢9泊、山中温泉に8月にかけて8泊、そして9月にかけて最後の地美濃大垣には14泊もしている。そしてその各地で俳諧を興行しているのだ。実はその各地には芭蕉に心酔する門人たちがいたわけだ。この頃の芭蕉はすでに全国に多くの門人というか、俳諧でいう連衆を抱えていたのだ。しかもその門人たちは各地の有力者たちである。当時、一老人芭蕉が一人の同行者を連れただけでこれだけの旅をできたのはこうした背景があったからだと言える。こういうと文学作品に対して現実的な要素を指摘しすぎると面白くはないかもしれない。しかし芭蕉がいかに自分の俳諧の道を苦労して切り開いたかの記録として読めば、けっしてうがった味方ということにはならないと思う。

その三 書簡

書簡は28篇収められている。実兄に宛てた一通以外は全て門人に宛てた書簡である。これらの書簡には、芭蕉が新しい俳諧の形を切り開き、それをいわば全国展開することにいかに執心していたかが窺えて、興味深い。以下二つの書簡を取り上げる。

  • 三二 立花牧童(彦三郎)宛書簡 四十七歳
  • 五五 杉山杉風(市兵衛)宛書簡 五十一歳

立花牧童(彦三郎)宛書簡

立花牧童という人は加賀金沢の人で、奥羽行脚の旅の途中で芭蕉の門に入った人物。後に兄の北枝とともに加賀蕉門の中心的存在となる。この書簡は、牧童の消息を聞き、書簡ももらったから、その返事だという体裁で、しかも金沢に大火事があったとのことで、そのお見舞いという内容だ。しかし、注目すべきは以下の文言だ。

(前略)いよいよ御はげみなさるべく候。世間ともに古び候により、少々愚案工夫これ有り候て、心を尽し申し候。その段ほぼ乙州も心得申し候あひだ、御話なさるべく候。

火事があったが句会も行われているようなので、ぜひ励んで欲しいといい、最近俳諧が停滞しているが、そのことに対して自分には或考えがあるので、そのことをよく知っている弟子の乙州によく聞いてくれと言っている点だ。この「愚案工夫」というのが、所謂「軽み」と称される蕉門の新しい俳諧の形で、これを全国へ広げたい芭蕉の意欲がこの書簡に感じられる。

杉山杉風(市兵衛)宛書簡

杉山杉風は江戸の門人。芭蕉庵を提供した人物でもある。この書簡は芭蕉が膳所の無名庵に滞在している頃、『別座鋪』という江戸で刊行された選集についての様々な点について杉風に諭しているものだ。『別座鋪』という選集は子珊という人物が杉風と桃隣という人物(芭蕉の縁者と言われている)の協力によって刊行されたもので、芭蕉の晩年の傾向、すなわち「軽み」を示す選集として、また停滞した俳諧を打開するものとして、大いに評判になった。しかし一方ではこれを良しとしない向き(嵐雪や其角)もあったので、蕉門分裂の引き金にもなったという。また、その『別座鋪』刊行に際しても、版下を杉風に見せなかったとか、同じ江戸蕉門の野坡や利牛の作品を載せていないとか色々手違いがあったようで、それについて師匠芭蕉は杉風になんやかやと取りなしている。ここで芭蕉は門人の誰それを非難するようなことは一切言っていない。むしろ「この新傾向をしっかりやりなさい」といい、この新傾向を非難する向きには「相手にするな」と言っている。

 まづ「軽み」と「興」ともつぱらに御励み、人人にも御申しなさるべく候。

と結んでいる。いかに芭蕉が蕉門の新傾向の普及と定着に心血を捧げていたがわかる書簡だ。

その四 遺書

遺書と思われるのは実兄に宛てた書簡と門人支考に口述を筆記させたもの3通がある。ただ、兄に宛てた遺書は極めて簡潔なもので、「ここに至って(死を覚悟していること)何もいうことはない。皆さんよろしく」としか言っていない。いかにも芭蕉らしいと言っていい。

支考が口述を筆記したものの1通目は遺品の所在や移譲について触れ、作品の誤伝訂正の依頼だ。

2通目は江戸深川の芭蕉庵ゆかりの人々への訣別が内容だが、特に桃隣に対する心配が際立っている。桃隣は芭蕉の親類筋というが、当時の営利的な点取俳諧を志向しているらしく、それを心配し、杉風らに指導するよう頼んでいる。それに支考の深切に対する謝辞だ。

3通目は遠隔地にいる古参の門人たちに対する訣別。この中で「いよいよ俳諧御つとめて候て、」という言葉が繰り返されている。最後に其角・嵐雪に対する言葉も忘れていない。最後まで芭蕉は自分が人生を賭けて唱導し、広げてきた蕉風俳諧というものに固執していたのがよくわかる。
この3通目は元禄7年10月10日に書かれたという。その翌々日12日に芭蕉はその俳諧一条に生きた生涯を閉じた。

終わりに

こうしてこの書に収めらた芭蕉が書き残した文書を読んでいくと、いかに芭蕉が俳諧の新しいあり方を求めて奮闘していたがよくわかる。ただ、その俳諧は今やほとんど失われてしまったのが残念でならない。芭蕉を近代的な解釈から解放して、芭蕉が求め、実現してきた世界を甦らせることができたらどんなにか素晴らしいかと思う。それにはもっと芭蕉やその連衆たちの俳諧を読まなければならい。今回はここまでとする。

2024.03.22 この項了

日本古典文学総復習続編21『芭蕉句集』

はじめに

今回は芭蕉です。この総復習続編もようやく江戸時代に入った。

実は前回の新日本古典文学大系を使った総復習でも芭蕉は取り上げている。以下である『日本古典文学総復習』69『初期俳諧集』70『芭蕉七部集』。これは芭蕉の真骨頂である俳諧作品だ。ただ今回は『芭蕉句集』と『芭蕉文集』と言う括りだ。この古典集成の『芭蕉句集』と言う表題にはかなりの工夫が感じられる。本来は「芭蕉発句集」としなければならないところのはずだ。しかし、芭蕉は俳句作者と言う形で現代の世間では通っている。そうならば「芭蕉俳句集」としたいところだが、これは正確ではないのだ。芭蕉は現代で言う俳句作者ではないからだ。ただ発句と言うのでは通りが悪い。そこでこうしたのだう。

私は何にこだわっているのだろうか。芭蕉は近代になって創造された俳句の作者ではないのだし、芭蕉を読むということは、あくまで「俳諧連歌」の中で読むべきだと言いたいからだ。(「俳諧連歌」については別項参照日本古典文学総復習続編14『連歌集』。また別稿も読んで下さい名著『芭蕉の恋句』を読む 芭蕉の俳諧について。)

さて前置きが長くなったが本書の内容を見ていこう。本書には 芭蕉の発句980句がほぼ年代順に並べられている。芭蕉の発句が一体どれくらいあるかは実は定かではない。同じ編者の 別の書籍でも981句が載っていて、20句ばかりの句の相違がある。つまり本によって句数は様々なのだ。また表記もさまざまだ。しかもここはあくまで「発句」に限っている。俳諧では発句はほんの一部で、平句と呼ばれるものや、七七の付句も芭蕉は多く作っている。またここにも優れたものも多いのだ。それも興味深いのだが、ただここはそういった事は別にして、与えられた980句をざっくり読むことにした。

お気に入りの句

ざっと読んでいて、「あ、この句がいいな」、「あ、何かで読んで印象に残っているな」、なんて思った句に付箋をつけて行った。全部で38句に上った。 ここに全てを記しておく。(区の前の番号は本書の句番号)

28 花に明かぬなげきやこちの歌袋
96 あやめ生ひけり軒の鰯のされかうべ
109 見渡せば詠むれば見れば須磨の秋
126 櫓声波を打つて腸氷る夜や涙
152 梅柳さぞ若衆哉女かな
156 朝顔に我は飯食ふ男哉
187 海苔汁の手際見せけり浅黄椀
192 霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き
232 春なれや名もなき山の薄霞
260 目出度き人の数にも入らん年の暮
281 酒飲めばとど寝られぬ夜の雪
309 朝顔は下手の書くさへあはれなり
334 まづ祝へ梅をこころの冬籠り
339 いざさらば雪見にころぶ所まで
361 手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
383 酒飲みに語らんかかる滝の花
410 蛸壺やはかなき夢を夏の月
454 身にしみて大根からし秋の風
506 世の人の見つけぬ花や軒の栗
531 月か花か問へど四睡の鼾哉
543 一家に遊女も寝たり萩と月
546 あかあかと日はつれなくも秋の風
555 湯の名残り幾度見るや霧のもと
612 この種と思ひこなさじ唐辛子
649 月見する座に美しき顔もなし
653 草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
688 呑みあけて花生にせん二升樽
724 折々は酢になる菊の肴かな
754 鴬や餅に糞する縁の先
762 鎌倉を生きて出でけん初鰹
771 青くてもあるべきものを唐辛子
774 行く秋のなほ頼もしや青蜜柑
802 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん
831 振売りの雁あはれなり恵美須講
841 梅が香にのつと日の出る山路哉
873 清滝の水汲ませてやところてん
889 ひやひやと壁をふまへて昼寝哉
904 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな

特に語っておきたい句その一

朝顔に我は飯食ふ男哉
朝顔は下手の書くさへあはれなり
青くてもあるべきものを唐辛子
月見する座に美しき顔もなし

こうした句を読むと芭蕉と言う人の為人がうかがえる。実はここに挙げた句はすべて弟子と言うか、連衆と言う俳諧グループの相手に対する挨拶の句なのである。どういうことかと言うと俳諧連歌と言うのは「座の文学」だと言うこと、つまり相手がいると言うことだ。現代の芭蕉のイメージは「奥の細道」の作者というところから、どうも個人的な旅をする俳句作者と言うイメージが強すぎるように思う。したがって、こういう句が芭蕉の作とすると意外に思われる人もいるのではないだろうか。実はこうした句がまずは芭蕉の真骨頂なのだ。

初めの朝顔の句は「私は至って普通の男ですよ」と言っている。「そんなにカッコつけなくたって良いじゃない」とシティボーイの弟子其角に言っている。

次の朝顔の句は弟子から画讃を頼まれて作った句。なんともひどい言いぶりだが、親しい弟子に対してだから言えた。

唐辛子の句は小生が一番お気に入りの句。「なんで赤くなっちゃったの」という二の句が次げそうな句。これも若い弟子に対する句。愛情あふれていると思いませんか。

月見の句も面白い。「月は綺麗で清々しいが、それにしても不細工な野郎ばかりそろったものだ」と連衆に向かって言っている。

まさにこれが俳諧なのだ。

特に語っておきたい句その二

月か花か問へど四睡の鼾哉
手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
ひやひやと壁をふまへて昼寝哉
鴬や餅に糞する縁の先
振売りの雁あはれなり恵美須講

これ等はまさに俳諧。俳諧という言葉はユーモアといった意味もあるが、卑俗といった意味合いもある。和歌や堂上連歌では決して使われない俗語を大胆に使っている。しかし決して句として卑俗になっていない。

「四睡」とは四人の賢者が居眠りしている絵。その讃として詠まれた。

「手鼻かむ音」とは山里の卑俗な風景。「それさへ」梅の盛りの美しい風景の添え物だと思えると。

昼寝の句、素足を壁につけて寝ると夏は気持ちがいいと。

「鶯」「雁」いずれも和歌や連歌の代表的な景物。それが糞をするは、食べるために売られているは、これこそ俳諧である。

「鶯」の句は多分正月を過ぎた頃にカビの生えた餅を干していて、そこに鶯が来て糞をしたという、春先のほのぼのとした感がある。こんな情景、人に言いたくなる。

「雁」の句はこの雁を食用としたところに俳諧があるが、それでも何か寂しい振売りの人物を彷彿とさせる。こうした句にも芭蕉の人間味が感じられる。

特に語っておきたい句その三

霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き
いざさらば雪見にころぶ所まで
世の人の見つけぬ花や軒の栗
あかあかと日はつれなくも秋の風
鎌倉を生きて出でけん初鰹

これ等の句は小生が見たことのある句碑に刻まれた句だ。ここにあげた句で他にも句碑になっている句はあるかも知れないが、実際に見た記憶のある句を挙げてみた。

富士の句碑は箱根新道の三島に向かう途中にあった。この句についてはかつて書いたことがある。芭蕉は捻くれ者だという趣旨であった。

雪見の句碑は向島の桜もちで有名な長命寺にある。この寺には小生が好きで一時研究していた成島柳北の碑があって尋ねたことがあった。この句「いざ行かん」「いざ出でん」という語から三つ言い換えている。雪が降ってきて何故か子どものように弾んだ気持ちが伝わってくる句だ。何故この句碑が長命寺にあるのかはわからない。

軒の栗の句碑は我が町戸塚の清源院にある。どうしてこの句の碑がここにあるかは定かではない。しかしこの寺にゆかりのある幕末の戸塚宿に住む俳人味岡露繡という人が芭蕉に親炙していて建てたという。福島の須賀川にある可伸という僧侶の庵で開かれた座での発句だけに本来はここにあるはずだが、この戸塚の俳人がよほど気に入っていたのだろう。この句碑の裏面にはその露繡の句「罌粟(けし)のはな 風も吹かぬに散りにけり」が刻まれている。小生も一句「どくだみの花も咲くらん明月院」お粗末。

戸塚清源院の句碑

あかあかとの句碑は確かどこかの高速道路のサービスエリアにあった。この句は金沢に入る前に金沢源意庵の納涼句会での発句だという。これはちょっと思い出せない。

鎌倉の句碑はこれも我が町戸塚の富塚八幡という神社の境内にある。戸塚宿は東海道にある宿場で日本橋から丁度10里の場所だ。そして鎌倉や江ノ島に折れていく起点でもある。初鰹は江戸っ子にとって大事な魚、鎌倉で水揚げされて江戸まで運ばれたのだろう。富塚八幡は東海道の途中にある。

戸塚富塚八幡の句碑

さて、こうして芭蕉の句碑は数多く建てられている。江戸時代から芭蕉を顕彰する機運が高まったのだろう。そしてもう一つは芭蕉が旅の俳人というイメージが作られたためということもあったはずだ。近代の歌人若山牧水の歌碑が全国に多いのと同じである。しかし芭蕉が旅の俳人と言っても、これ等の句が土地土地にいる俳諧の座で詠まれたものであることは忘れてはならない。

終わりに

芭蕉は本当に好きで色々と読んできたので、語り尽くせない感が強いが、キリが無いのでこの辺りで筆を置くことにする。これを機会にぜひ芭蕉の句を虚心坦懐、読んでもらえればと思う。

2024.03.06

この項了

名著『芭蕉の恋句』を読む 芭蕉の俳諧について

東明雅氏の著書に『芭蕉の恋句』というのがある。岩波新書の一冊で、初版はもうだいぶ以前に出たものだが、ハードカバーで再販されている。中身は読んでもらえばわかるのだが、芭蕉の句をあくまでも俳諧の一部として読むというコンセプトで書かれていて、しかも「恋の句」を取り上げることによって、それを見事に実現した名著だ。小生はこの書から少なからず教示を得たわけだが、ここに自分なりにこの書で紹介されいる俳諧の付け合いをたどってみることによって、芭蕉の句を俳諧の文脈でもう一度読み直してみたいと考えている。

さて、前置きはこのぐらいにして、早速この書の後半で紹介されている以下の付け合いを読んでみたい。

    黒木ほすべき谷かげの小屋      北鯤
   たがよめと身をやまかせむ物おもひ   芭蕉
    あら野の百合に泪かけつゝ      嵐蘭

北鯤の前句は人里離れた谷かげの一軒家を詠んだ句だ。著者によれば、黒木は「京の八瀬・大原あたりで作られ、大原女が頭にのせて京都の市中を売り歩いた」「竈で蒸し黒くふすべ薪とした木」だそうだ。そんな黒木をほす一軒家を詠んだ句に、芭蕉はその家の一人娘を想像する。そしてその娘が、自分が誰の嫁になるかと思い悩んでいるというのだ。前句にあるなんとなくさびしい風景とそこに住む娘のさびしい心持を著者は読み取っている。だが、それは次の句によって明らかになることだ。芭蕉の句を単独の句として読めば、けっして優れた句ということにはならないだろうし、この物思いもひょっとすると期待感を含むものとも取れないことはない。しかし、芭蕉の句に付けられた嵐蘭の句が荒野に咲く清楚な一輪の百合を詠み、そこに泪を添えたことによって俄然こうした著者の解釈を妥当なものする。これが連句=俳諧の妙味なのだと思う。別な言い方をすれば、芭蕉の句はその後の嵐蘭の付け句を引き出すところに優れた点があるとも言える。ただ、この付け合いはその前があるし、その後の展開もある。東氏はその点については触れていない。そこで、その前を見てみることにする。

「黒き」の句の前句はソ良の

   山風にきびしく落る栗のいが

という句だ。この句を見ると、北鯤「黒木」の句は場所をさらに特定したのみの句ということになる。ただ、「きびしく」という言葉からも、この谷陰の小屋が一軒ぽつんと建っている粗末な屋根しかない小屋であり、おそらくこの小屋に住むのは、腰の曲がった老人だろうと想像できる。しかし、そんな想像を超えて、芭蕉はいずれ誰かの嫁となる多感な若い娘の悩みを引き出している。「恋」の句である。こんなところが面白い。そして嵐蘭のいい「恋」の句を引き出しているわけだ。この嵐蘭の句は、「山家集」にある、

 雲雀たつ荒野に生ふる姫百合の何につくともなき心かな

という歌を踏まえているらしい。この歌は前書きに「心性定まらずというふことを題にて・・・」とあるように、何にも頼れない不安な心を詠んでいる歌だが、芭蕉が引き出した若い娘をうまく言い当てている。こんなところも連句=俳諧ならではといえるのではとおもう。

さて、その後の展開はどうなったのだろうか。嵐蘭の句の付け句は嵐竹という人物の

   狼の番して明る夏の月

という句だ。「狼」は「墓原」から創造される語だそうだが、「あら野」を「墓原」とみて、月を出している。ここで一気に「恋」の気分は消え去って、「泪」を恋の泪ではなく、死者を悼む涙に転じている。こうしたところも連句=俳諧ならではで、一つの情緒にこだわってはいけないのだ。そして、塔山の次の句

    水のいはやに佛きざみて

という句への展開していく。あまりうまい鑑賞とはいかなかったようだが、この一連の付け合いで芭蕉が行っていたことの一端がわかっていただければと思う。

元禄二年の歌仙「かげろふの」の後半の付け合い。

   山風にきびしく落る栗のいが      ソ良
    黒木ほすべき谷かげの小屋      北鯤
   たがよめと身をやまかせむ物おもひ   芭蕉
    あら野の百合に泪かけつゝ      嵐蘭
   狼の番して明る夏の月         嵐竹
    水のいはやに佛きざみて       塔山

この稿未了

日本古典文学総復習続編20『歎異抄・三帖和讃』

はじめに

今回は親鸞の言説。これを文学と言えるかどうかだが、現在でも評価の高い僧侶であり、その言説といえるから、ここに収められているのはそれなりの根拠があるのだろう。小生も、年少の頃より私淑してきた思想家がこの親鸞を高く評価し、論じてきたという経緯から、少なからず関心を持ってきた。
ただ、それが災いしてこの親鸞の言説を素直に読めないかもしれないが、なるべく本書に沿って読んでいきたいと考える。

本書の内容

『歎異抄』『三帖和讃』『末燈鈔』の3作品?だ(先ほどから親鸞の言説という言い方をしてきたのは『三帖和讃』以外は後の人が親鸞の言説や書簡を記録編集したものだからだ)。それぞれの内容を見ていく。

『歎異抄』

序言があって、第一から第一八までの親鸞の言説があり、後記があるという体裁を持っている。
序言では著者の唯円という人物の嘆きが語られる。故人となった親鸞の教えが乱れて伝えられていると嘆き、それを自分が聞いたところを記して、正したいと言う。

故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留むるところ、いささか、これを注す。ひとへに、同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々

と言っている。

さて、中身については頭注にある編者(この本の)の文言を借りて記しておく。以下だ。

  • 序   唯円の嘆き
  • 第一  絶対他力の信心
  • 第二  出合いによる得信
  • 第三  悪人を自覚する心
  • 第四  恩愛を超えた慈悲
  • 第五  恩愛を超えた念仏
  • 第六  自然の道理としての念仏
  • 第七  何ものにも妨げられない念仏の道
  • 第八  賢者精進の修行とは無縁な念仏
  • 第九  煩悩を生きる人間を摂め取る仏
  • 第十  人間の思惟を超えた他力の大悲
  • 中序  聖人の仰せにあらざる異議
  • 第十一 誓願の功徳と名号との関係
  • 第十二 学問と信仰をめぐる問題
  • 第十三 他力をたのむ悪人
  • 第十四 摂取不捨の利益にあずかる念仏
  • 第十五 他力のさとり
  • 第十六 廻心ということ
  • 第十七 辺地より真実報土へ
  • 第十八 寺院・道場経営者の論理
  • 後記  歎異の心

さて、こうして様々な形で論じている親鸞の根本的な思想は何かというと、それは「絶対他力」という事になろうかと思う。「他力本願」という言葉は現在でも使われ、決していい意味ではないように思うが、親鸞の言う「他力本願」とは、全ては阿弥陀仏の計らいによって決まるということのようだ。

人々はいつの時代も現世が辛いから宗教に救いを求める。そして来世が素晴らしい世界であることを望む。それがここ日本では平安から「浄土」と呼ばれ、「極楽往生」することをあらゆる仏教が唱える。ドイツの思想家カールマルクスは「宗教はアヘンだ」と言ったというが、「だから宗教は悪だ」と言ったのではないはずだ。人間の弱さ・痛みがアヘンを求めるように宗教に救いを求めてしまう。問題なのは「なぜ人間は救いを求めなくてはならないのか、(なぜ解放されていないのか)」なのだと言っているはずだ。未だ人間は解放されてはいずに、従って宗教は今も存在する。ましてや親鸞が生きた時代は現代以上に生きにくい時代で、相次ぐ戦乱や天災によって飢えや病気で多くの人々が死を迎えなくてはならない世だったはずだ。

そんな中登場したのが法然の浄土宗であった。これは特別な修行をせずともただひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できるという趣旨の宗派で、多くの人々に向かい入れられた。そしてそれをもっと徹底させたのが親鸞だった。多くの普通の人々「衆生」はもともと阿弥陀仏によって救われることになっているのだという。念仏を一心に唱えることも必要はないとまで言っている。ましてや修行などいらないと。ここまでくるとほとんど宗教の否定のように思えてくるが、ここに親鸞という人物のラジカルさがうかがえる。そして親鸞の徹底した自己省察と深い自己否定とが伺える。そこからくる人間観、これが「絶対他力」というこだと思う。

第十三にこんなエピソードがある。

親鸞が唯円に「私の言うことがきけるか」と言い、唯円が「なんでも聖人様の言う通りにします」と答える。すると親鸞は「だったら人を千人殺せ。そうすれば往生は決定する。」と言う。それに対して唯円は「私にはそんな器量はありません。人一人も殺すことなどできません」と言う。そこで親鸞は次のように言ったと言うのだ。

これにて知るべし。何事もこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず。また、害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし

つまり、親鸞はこう言っている。「何事も心の思うままになるのなら往生のために千人殺せるはずだ。しかしそうはいかないのだ。きっかけ(業縁)がなければ一人も殺せないし、殺したくないと思っていても百人・千人を殺してしまうこともあるのだ」と。

これが親鸞のいう「絶対他力」ということなのだろう。人間がいかに相対的な存在であるかということだ。そういう相対的な存在であるが故に阿弥陀仏が初めから救ってくれるのだと。これが「他力本願」だと。親鸞がこうした境地に至るには、長い比叡山での修行(自力)と徹底的な自己省察と、流罪になって見てきた地獄にも似た「衆生」の現実に対する認識があったといえる。

さて、もう一つ有名な「悪人正機」の一説を見ておこう。第三にある。

善人なほもつて往生を遂ぐ。いわんや、悪人をや。
しかるを、世の人つねに言はく、『悪人なほ往生す。いかにいわんや、善人をや』。この条、一旦、そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人はひとえに他力をたのむこころ欠けたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがへして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰せ候ひき。

ここでも「他力本願」とは何かを言っている。それは「弥陀の本願」であり、煩悩具足のわれら、すなわち悪人を救うためなのだと。つまり相対的に生きるしかない(他力で生きるしかない)「衆生」を救うのが「弥陀の本願」であり、すなわちそれが「他力本願」だと言っている。
こういう親鸞の思想はどこぞの宗教のように決して寄付を求めないだろうし、修行を求めない。もはや反宗教と言っても良いかもしれない。だが、親鸞の死後、この教えが全国的に広まり、大宗教になってしまう。現在の本願寺の有り様を見ると不思議な気がする。

『三帖和讃』

さて、先を急ごう。今度は「和讃」だ。

まずは「和讃」とは何かを確認しておこう。辞書によれば「仏教歌謡の一種で,仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をほめたたえる讃歌。梵語による梵讃,漢語による漢讃に対して,日本語で詠われるためこの名がある。」という。また「鎌倉時代以後和讃の主流となった4句1首形式は,今様の影響下に成立したものといわれ,和讃作者として高く評価されている親鸞の和讃も,すべてこの4句1首形式で,七五調によっている。親鸞の代表作は,浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃のいわゆる《三帖和讃》で,親鸞自身の豊かな宗教感動を軸として,抒情に流されることなく,理智的な構成美と高い格調を持っている。」(改訂新版 世界大百科事典による)

辞書に言う通り、浄土和讃・浄土高僧和讃・正像末法和讃が収められている。
浄土和讃116首・浄土高僧和讃117首・正像末法和讃92首だ。

「浄土和讃」は以下に分類されている。
讃阿弥陀仏偈和讃・浄土和讃・諸経意弥陀仏和讃・現世の利益和讃・大勢至菩薩和讃だ。
いずれも浄土真宗の教えを歌の形にしたものと理解すれば良いと思う。信者が後の時代に唱えるべきものという。
「浄土高僧和讃」は七人の浄土の高僧を弥陀他力の法の尊さをほめ讃たものという。
「正像末法和讃」は以下に分類されるが、これが一番文学的価値が高いように思われる。
すなわち正像末法和讃・愚禿述壊・愚禿悲嘆述壊だ。これらは親鸞の最晩年に作られてというもので、親鸞そのものがよく表されているように思う。ここにも徹底した自己省察が伺える。決して悟りを開いた高僧のイメージはない。あくまで自己を愚かな凡夫とする思想家親鸞のイメージである。一つだけ引いておこう。

悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆゑに
  虚仮の行とぞ名づけたる

身にそなわっている悪性をとどめることは、全く不可能にひとしく、煩悩の心は毒蛇やさそりのように恐ろしい。たとえ善行を修めたとしても、そこには煩悩の毒がまじっているので、虚仮の行と名づけ、真実の業とはいわない。(編者口訳)

晩年になってもこうした自己省察を怠らず、自分を凡夫といい、「愚禿」と規定する姿は、後の大宗派の創始者というより、一人の孤独な思想家の姿である。

『末燈鈔』

さて、最後に『末燈鈔』を見ていこう。

この書は親鸞の書簡集。親鸞最晩年のものだ。親鸞は京都にあって、東国の門徒たちの論争に終止符を打つべく、精力的に消息を送っていたようだ。それを後に編集したもの。

では、実際にその内容を例によって本書に沿ってその要約を見ていく。

  • 第一書簡 真実信心の人は来迎往生をまたず。
  • 第二書簡 自力の念仏と他力の本願念仏の違い
  • 第三書簡 真実信心の人は如来とひとし
  • 第四書簡 信心よろこぶ人は、諸々の如来にひとし
  • 第五書簡 しからむるということば
  • 第六書簡 往生は如来の御はからい
  • 第七書簡 信心の人をば諸仏に等しと申すなり
  • 第八書簡 浄土の教えは、人の思惟を超えた真実である
  • 第九書簡 他力は、人智の及ばない不思議である
  • 第十書簡 他力にはとかくのはからいがあってはならない
  • 第十一書簡 弥陀の誓願によってさし向けられた信心と名号
  • 第十二書簡 名号となうとも本願を信じない者は辺地に往生す
  • 第十三書簡 信心が定まるのは、如来の摂取にあずかる時である
  • (慶信の上書)信心よろこぶ人は如来にひとしい
  • 第十四書簡 阿弥陀仏は智慧の光にてまします
  • (蓮位の添状)この手紙の趣旨に間違いはありません
  • 第十五書簡 自力の心で、わが身を如来とひとしいと思ってはならない
  • 第十六書簡 悪くるしからずということは、とんでもない考えです
  • 第十七書簡 他力のなかにまた他力と申すことは聞き候はず
  • 第十八書簡 信心をえたる人は、臨終を期し、来迎を待つ必要がない
  • 第十九書簡 誓願があるからといって、わざと悪を好んではいけない
  • 第二十書簡 薬あればとて、毒を好むべからず
  • 第二一書簡 念仏往生の願をひたすら信じることを一向専修という
  • 第二二書簡 弥陀の本願は行にあらず善にあらず

ここで第一六書簡を見ておこう。

これは親鸞の教えが最も誤解を生むところについて答えているからだ。それは「造悪無碍」の考え方に対する批判ということになる。先にも見たように親鸞は現世の善悪について相対視しているので、悪は思うままに振る舞っても構わないという誤解を生んできた。実際それを吹聴する者が多く関東に現れ、それが弾圧の口実となったようだ。また、第十九書簡にあるようにわざと悪をなすものが往生を約束されているからと多く現れたという。これらは親鸞の考え方が最も陥りやすい誤解であり、それがこの宗派を拡大させた要素でもあり、またそれゆえに弾圧の口実を与えた要素であった。そこをどう門徒たちに説明するか、親鸞は苦労したのではないか。「経典や祖師がたの書かれたものを少しも知らず、 如来のお言葉も知らない人々に対して、 悪は往生のさまたげにならないなどと決していってはなりません。 謹んで申しあげます。」と言っている。これは「他力本願」の誤解によるのだと。「他力本願」の趣旨をしっかり理解しろと。言ってみれば、進んで悪をなすのは「自力」であり、「他力」すなわち否応なく悪を犯してしまうのとは全く異なると。

ただ、これらの書簡は門徒たちとのやりとりだけに細部は理解不能なところが多い。しかし親鸞は最晩年でも自己省察をやめることはなかったことだけは窺える。

終わりに

こう読んできて、親鸞は特異な僧侶であることは間違いないと思える。いわば反宗教的とも言っていい感じがしないでもない。しかしやはり仏教の中に存在していることは間違いないのだろう。仏教については知るところがほとんどないので、これ以上何かを論じることはできないが、そんな親鸞の宗派がこの後大宗派に発展するメカニズムが不思議でならない。それは弾圧された原始キリスト教がその後大教会をもつ世界宗教になったこととも関連があるのだろうか。

今回はここまで。

2024.02.22 この項了

日本古典文学総復習続編19『説経集』

はじめに

今回は『説経集』である。

こう言われてピンとくる人は少ないと思う。日本古典文学の中でもいわば忘れられた存在だ。

この「説経」、元は「説教」とも書いたらしいが、現在ではこの「説教」と「説経」ではニュアンスが異なる。現在「説教」は「先生に説教された」という風に使い、いわば人の道・道徳的なことを「教え、諭される」こと、という意味である。だが一方の「説経」は一般的にはあまり使われず、わずかに寺院に於いての僧侶の講和という形で使われるように思う。つまりは「お経」を「説く」という意味である。

したがって、この『説経集』はそうした仏教的な話を集めたものというふうに考えられるかもしれない。

しかし、それもやや違う。では「説経節」というのをご存じだらうか。実はこの『説経集』は「説経節」のいくつかの作品?を集めたものなのである。そしてこの「説経節」は仏教的な要素はもちろん含んでいるが、むしろ、ある傾向の物語を語る「芸能」であったのだ。

「歌舞伎」や「文楽」(人形浄瑠璃)はご存知の方も多いだろう。実はこの「説経節」もそうした芸能の一つだった。この書ではもちろん文字で書かれた物語が示されている。しかし、元は「説経節」はその名のように「語り」であった。この書はそれを文字化したもの(「正本」と言う)で、元はいわば「口唱文芸」であった。

口絵を見ていただきたい。これは北野天満宮の門前で「説経節」が行われている様子である。語り手が「ささら」を持ち(これが一種の楽器、後、浄瑠璃となると三味線に変わる)、大きな傘をさして(これが一種の目印)物語を語っている。これが「説経節」である。そして、その語り手は多く下層の僧侶であったようである。そして聴衆もまた下層の人々であったようだ。

つまりこの『説経集』、下層で漂白の僧侶たちが語り歩いた芸能たる「説経節」の代表的な「話」を集めたものということになる。

それぞれの梗概

ではそれはどんな傾向を持った話なのだろうか。この書では六篇の話が収められているが、まずはそれぞれの「話」の概要を見ていくことにする。

『かるかや』

「かるかや」とは「刈萱道心」という名の高野山の僧侶のこと。この僧侶、元は武将であったが、思うところあって妻子を捨てて出家した人物。この人物には子があってその名を石童丸と言った。その子は父の顔を知らずに育ったが、父会いたさに高野山に登る。いろいろ経緯があって結局は高野山で父の弟子となる。しかし父はそれと知りながらあくまで石童丸を子として認めない。しかも石童丸は最後までその「刈萱道心」が父だと知らずにいる。父は「棄恩入無為の誓い」(恩愛の情を捨て、世俗の執着を断ち切って、悟りの道にはいること。)を守り通したという話。しかしこの話はそれだけではなく、この父子が菩薩の化身で、常行念仏の偉大な尊者であるという点だ。そしてこの父子が刻んだというみ親子地蔵尊が信濃の善光寺本尊として祀られ、いまなお多くの人の信仰を集めているという点が「説経」たる所以である。

『さんせう太夫』

これは森鴎外の小説『山椒太夫』でよく知られていると思う。もちろんそれとは趣を事にするが話の大方は同じである。

讒言によって父が流罪となったその母子姉弟の苦難に満ちた物語。京に上る途中人買いに騙され母と 乳母は蝦夷に、姉弟は丹後国由良の山椒太夫のもとへ売られ、そこで酷い仕打ちを受ける。しかしなんとか弟のつし王は姉の手助けと犠牲で逃れことができ、その後、国分寺の僧や金焼地蔵の霊験、聖徳太子の計らい、梅津院の援助などによって奥州五十四郡の主に返り咲くことができる。しかし、つし王は元の領地よりも丹後国守を望み、そこで山椒太夫に対する復讐を遂げる。また、盲目となった母と再会し、金焼地蔵によってその眼を開眼させることができたというお話。これも初めに「金焼地蔵の御本地」とある点が注目される。

『しんとく丸』

河内国高安の長者が清水観音に願をかけ授かった子の話。この子「しんとく丸」、容姿よし、頭脳明晰であった。ということで四天王寺の稚児舞楽に選ばれて舞うこととなり、そこで隣村の蔭山長者の娘・乙姫に見染められ一緒になることを願うようになる。しかしこれが災いの端緒となった。継母が自分の子を世継ぎにしたいがために「しんとく丸」を虐待し、ついに失明までさせられてしまう。その後癩病にも侵され、ついに家から追い出されてしまう。その後何とか四天王寺で乞食となりはてて暮らすこととなる。しかし、乙姫が「しんとく丸」を見つけ出し、二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、病気が快癒して、その後乙姫のところで幸せに暮らしたという。一方継母は家が没落、物乞いとなった。というお話。

『をぐり』

「説経節」の代表的な話。後、歌舞伎等でも演じられ続けている。

話は一種の「貴種流離譚」。大納言兼家の嫡子小栗判官が故あって常陸の国に流され、そこで美貌の娘である照手姫を知り、無理矢理婿入りをする。しかしそれに怒った照手姫の兄郡代横山は小栗たちを毒殺し、照手姫を相模川に流してしまう。照手姫は一旦は救われるが、人買いに売り飛ばされ、美濃国でこき使われることとなる。一方死んだはずの小栗は、閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。遊行上人は餓鬼阿弥と化した小栗を車に乗せ、「この車を引くものは供養になるべし」として、多くの人々に車を引かせて、照手姫のいる美濃国を通り、熊野に至らしめる。照手姫はその餓鬼阿弥が小栗であることも知らずに車を引いていた。そして熊野到着後、湯の峰温泉で49日の湯治の末、小栗は復活する。復活後元の地位を回復し、照手姫とも再会し、横山を滅ぼこととなるというお話。死後は美濃墨俣の正八幡に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた、という。

『あいごの若』

これも一種の「貴種流離譚」と言えるが、結末が酷い。これまでの話はいわばハッピーエンドだったが、これは登場人物ほとんど全てが死んでしまうという結末。主人公の「あいごの若」が15歳で投身自殺してしまうのだが、それを追って百八人もの人物が投身自殺するという惨たらしい結末だ。

さて、この「あいごの若」という人物、左大臣の子だが、やっとの思いで神仏に祈願して生まれた人物。ただ、母が神仏によって死んでしまうという運命にあり、しかも父の後添えに惚れられて、その後添えの策略で父にも疎まれ、叔父を訪ねて比叡山に行くが、盗賊と間違われて結局は投身自殺するというお話。大筋で言うとこうなるが、この話には途中、この「あいごの若」を助ける人々も登場し、これがいわゆる地下の者たちで、職人や農民なのだ。これが「説経節」たる所以といえる。またこの人物は山王権現に結び付けられている。

『まつら長者』

これまた、神仏に祈願して生まれた子の話。ここは娘で「さよ姫」と言った。しかし、この父はしばらくしてなくなってしまう。すると母子二人では家運は傾き、父の供養もできない身の上となる。そこで「さよ姫」は自ら身を売って父の供養をする事になる。ただ、その身売り先がなんと大蛇の生け贄だった。池中に構えられた贄棚に上った姫は一心に法華経を読誦する。すると大蛇は改悛し、その甲斐あってさよ姫は奈良に帰され、松浦長者として栄えたと言うお話。後に竹生島の弁財天として現れたと言う。

共通する要素

こう読でくると、いずれも話のパターンは同じようだ。まず主人公は本来は貴種とういか、社会的立場の上位にいる人物だということ。そしてその主人公があるきっかけで酷い仕打ちを受け、真っ逆さまに社会の下層に落ちぶれてしまう(もしくはむなしくなってしまう)こと。だが、最後は元の位置に戻るか、神か仏として祀られるというパターンだ。これは「説経」が神仏の「本地」を語るという形になっているからだ。ほとんどの話の冒頭に以下ような言葉がある。

ただ今、説きたて広め申し候本地は、国を申さば信濃の国、善光寺如来堂の弓手のわきに、親子地蔵菩薩といははれておはします御本地を…(『かるかや』冒頭)

ただ今語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼地蔵の御本地を、…(『さんせう太夫』冒頭)

ただ今語り申す御本地、国を申さば近江の国、竹生島の弁財天の由来を…(『まつら長者』冒頭)

では「本地」とは何か。本来、神として現れた(これを「垂迹」という)本の仏をいう言葉だ。この「説経」においては話の主人公が垂迹した人物という事になり、本来は仏であったということを語っているという事になる。

こうした話に共通する、主人公たちの艱難辛苦に満ちた生涯が実は多くの下層民の実際の生活実態であり、それゆえに下層民の聴衆がこうした話に同調し、それが実は神仏であったという事で安心をもたらしていたと言えるのかもしれない。

最後に

こうした「説経」はもはやほとんど存在しない。わずかに浄瑠璃や歌舞伎の中にその片鱗を残しているのみだ。だが、実は我々日本人の中に未だに、こうした物語のパターンに心が揺るぐものが残っているような気がする。そういう意味でもっと研究していい分野だと思う。

2024.01.24
この項了

小刀の鞘を作成

木工の話題。

小刀は木工道具としては汎用性があって、とても便利なもの。剥き身の小刀があって、先日研いだので、一本を娘のところに置いておこうと考えて、鞘を作ることにした。その記録。

まず材料は柔らかい木の必要があり、朴の古い板があったのでそれを使うことに。削れば綺麗になる。ここが木のいいところ。

大きい板のまま、小刀の形に溝を彫る。ミニルーターを使う手もあるが、ここは彫刻刀と鑿を使う。結構大変だけど、これが楽しい。この楽しみが素人木工のいいところ。

溝が彫れたら、大体の大きさに板を切って、蓋にする部分も切っておく。蓋の部分は鉋でかなり薄くしておく。

溝がある板に刃を入れるところをテープで養生して、ボンドを塗る。

蓋の板を重ね、圧着しておく。一晩置いておいた。

鉋を中心に使って形を整える。ここでかなり細くする。

ほとんど形になったら、ほぼ半分に切断する。この時はアサリのない鋸を使う。刃を嵌めてみる。

その状態で手元の方に穴を開ける。これは刃が抜けないようにするためだ。接着してしまう手もあるが、ここは穴に止める棒を嵌めて取り外しができるようにする。こうすると、刃を研ぐ時に便利だ。ただ、この作業が一番大変だった。なにせ鉄に穴をあけるのだから。鉄鋼用のドリル刃を慎重に細いものから使っていけば、このように丸く穴が開く。

そして穴に埋める棒は小刀で削って作る。

 

ちょっと太い感がないでもないが、綺麗にできたと思う。

 

 

 

ガラステーブルの炬燵化アダプタの作成

木工の話題
作成過程は詳細に記録しなかったので簡単に記録しておく。

新しい天板を用意し、高くするための脚を加工してボルトで止める。
下にボードを貼って、横に止めるための横棒をボルトで止める。
炬燵の熱源を取り付ける。
材料は炬燵の熱源以外はいずれも家にあったもの。
脚はガラステーブルのと同様、欅の板を使う。例によって手鋸をつかうため、正確に切るのが難しかった。
ダボで止めるため、その穴あけも何回か調整が必要だった。
炬燵の熱源を横棒に止めるのも、下のボードの厚さの関係で結構苦労した。

ガラステーブルの脚がしっかりはまることを確認。

その上で、天板にあたらしい合板を接着。これは天板に使った合板が雨ざらしで汚かったので、こうした。これは購入した。ボルトで止めることも考えたが、天板が薄いのでボンドでとめた。

あとは脚をつけて、設置し、布団とカバーをつけて、もとのガラス天板を載せれば完成。布団とカバーは横長の掘り炬燵用のもので代用。

カミさんが気に入ってくれた。なによりだ。

日本古典文学総復習続編18『無名草子』

はじめに

今回はそれほど間が開かなった。

小冊子だということもあるし、今月は久しぶりに遠出する予定がないということもあった。

さて、今回は『無名草子』を取り上げる。前回に続いて評論的な古典だ。時代はやや戻るが、前回が世阿弥の芸術論だったが、今回は文学論と言ったところだ。作者は俊成卿女という風に推察されている。
しかし、文学論と言っても現代のそれとは全く趣を異にしている。これまでこの書については、文学史上で散逸した物語を知る資料としてのみ知っていたが、今回しっかり読んでみて、なかなか面白い書であったことがわかった。つまりこの書の設定というか、構えが面白いのだ。
語り手である老尼が仏前に供える花を摘みに出かけた散歩の途中ある屋敷に出くわし、そこに招き入れられるところから話が始まる。そして、その屋敷に集まっている女性たちが様々なことを語り合うという形で最後まで話が進んでいく。実はこの老尼は聞き手だと思っているとその後は全く顔を出さなくなる。要はこの屋敷に集った女性たちの論談の記録という形でこの書が構成されているのだ。

(前略)若き、大人しき、添ひて、七八と居並みて、「今宵は御伽して、やがて居明かさむ。月もめづらし」など言ひて、集ひ合はれたり

ということで、いわば文学論というか、平安期の文化について物語を中心に語られていく。今風に言えば文学についてのガールズトークの記録といったところだ。

この書の構成

では、まずこの書の内容を整理しておく。(決して章立てのようには書かれていないが)

  • 導入部
  • 源氏物語論
  • その他の物語論
  • 歌物語論
  • 歌集論
  • 女性論
  • 終章

と言った展開である。

ではそれぞれを見ていこう。

それぞれの内容

導入部

「はじめに」に書いた内容。いわばこの書の場の設定。「月」「文(手紙)」「夢」「涙」「阿弥陀仏」「法華経」について語り合う。

源氏物語論

「法華経」に言及がないとして『源氏物語』を取り上げる。ここで若い女性が聞き役となる。老尼は寝ていて登場しなくなる。

「巻巻の論」

やや「明石」の巻に詳しく言及

「女性論」

『源氏物語』に登場する女性たちを論評。「いみじき女」「このもしき女」「いとほしき女」などに分類して語る。花散里、紫の上、夕顔、中君等を評価。女三宮には以下のような痛烈な論評もある。

(前略)余りに言ふかいひなきものから、さすがに色めかしき所のおはするが、心づきなきなり。(本文33頁)
 あまりに年齢相応の思慮もないくせに、妙に異性関係にだけは神経の働く点が、気に入りません(本書傍注訳)

「男性論」

主人公は別にして、頭の中将について賛否両論的に論評。薫大将は高評価。

「ふしぶしの論」

ここでは女性たちの「死に様」(死の情景描写)について取り上げる。

「いみじきこと」「いとほしきこと」「心やましきこと」「あさましきこと」

いわば枕の草子の類聚章段のように、物語中の話題を取り上げている。

その他の物語論

ここで多くの源氏物語以降に書かれたと思われる物語を取り上げる。詳しく論じているのは七篇ぐらい。あとは書名紹介程度でいずれも評価は高いとは言えない。結局は『源氏物語』ほど求めるものはないということのようだ。

以下の物語だ。

『狭衣物語』『夜の寝覚』『みつの浜松』『玉藻に遊ぶ大納言』『古本とりかへばや』『隠れ蓑』『今とりかへばや』『心高き』『朝倉』『川霧』『岩うつ浪』『海人の刈藻』『末葉の露』『露の宿り』『三河に咲ける』『宇治の河浪』『駒迎へ』『緒絶え沼』『うきなみ』『松浦の宮』『有明の別れ』『夢語り』『浪路の姫君』『浅茅が原の尚侍』

ここには多く散逸物語が含まれていて、文学史上の資料となっている。

歌物語論

これまで語ってきた物語はすべて「偽り・虚言」とし、ここであげる『伊勢物語』『大和物語』は「げにあること」を書いたものだとして取り上げている。ただ、ここは簡単にみんなが知っているからと、「去れば、細かに申すに及ばず。」とし、歌についても「古今集」を見よとだけ言っている。しかもこの簡単な扱いから、これまで語ってきた物語が作り事だからみるべきのもがないと言っているわけではないことが、むしろ伺えると言えるようだ。

歌集論

ここは歌物語の流れから歌集について論じている。ただ少ない分量の中、『万葉集』・『古今集』をはじめ勅撰集・私歌集を論じているだけに詳しい評価はない。
『万葉集』は古すぎてよくわからないとし、『古今集』をはじめ勅撰集は勅撰ということから論ずることを畏れ多いとし、『千載集』のみは編者の苦労を指摘している。
私歌集についてはあまり高い評価をあたえてない。

ただ、この段で注目すべきは以下のことばだ。

「あはれ、折につけて、三位の入道のやうなる身にて、集を撰び侍らばや」(本書104頁)
「いでや、いみじけれども、女ばかり口惜しきものなし。」(同上)
「昔より色を好み、道を習ふ輩多かれど、女のいまだ集など撰ぶことなきこそ、いと口惜しけれ」(本書105頁)

ここは語り手のというより、この書の筆者の本音だろう。漢文は男専用、しかし和文は女のものというのが常識のようだが、和文の世界にも正式に女性が活躍できていないことを嘆いているのだ。では女性が才能がなかったのか、そんなことはない。ということでつぎの女性論となる。

女性論

ここは平安朝の著名な女性たちを取り上げる。

小野小町・清少納言・小式部の内侍・和泉式部・宮の宣旨・伊勢の御息所・兵衛の内侍・紫式部・皇后定子・上東門院・大斎院選子・小野の皇太后宮の12人だ。

以下のようにそれぞれを語っている。

  • 小野小町・清少納言は晩年の落魄ぶりを。
  • 小式部の内侍は命短かかったこと、大江山の歌を。
  • 和泉式部は娘の死がかえって晩年を幸にしたことを。
  • 宮の宣旨も和泉式部同様歌をもって人生を貫いたことを。
  • 伊勢の御息所は出家後の生活がいいことを。
  • 兵衛の内侍は音楽の才を。
  • 紫式部はなんと言っても『源氏物語』を創造したことを。
  • 皇后定子は逆境に対しても気品を失わない生活ぶりを。
  • 上東門院は紫式部が仕えていた。清少納言が仕えていた定子に比べるとやや低い評価を。
  • 大斎院選子の長命であったこと、その老後の生活ぶりがすばらしかったことを。
  • 小野の皇太后宮も晩年のひっそりとした生活ぶりを。

こう読んでくると、この書の女性観は、王朝的な優雅な生活、決して派手というのでもなく、慎ましく花鳥風月をめでて生きるのが良いとするものであったようだ。

終章

最後に、これまで女性ばかりとりあげているのは片手落ちではと聞き手が言うと、それは『栄花物語』や『大鏡』に聞いてくれ(読んでくれ)、といってこの書は閉じられている。

終わりに

こう読んでくると、この書が『大鏡』を意識して、書かれていることがわかる。しかも女性の観点で、女性の(歴史というより)文学を語るという意図がはっきりしてくる気がする。先に引いた「女ばかり口惜しきものなし」という言が響いている。

2023.12.06

この項、了

日本古典文学総復習続編17『世阿弥芸術論集』

書籍表紙

はじめに

また随分間が空いてしまった。前回のアップが6月だったから、なんと4ヶ月を要したことになる。どうも他のことが忙しく古典に向き合うのが疎かになりがちだ。しかしようやく暑さも収まり秋の気配が濃厚になってきたので取り組むことにした。

今回は世阿弥である。能については古典の中で不得意な分野である。どうも近付き難いイメージが強い。なぜだかわからないが現在の能の位置というのが好きになれない。しかし、ここは能を取り上げるわけではなく、それの完成者たる世阿弥の著述である。そしてこの著述を読むと能が現在の古典芸能というものではなく、実に生き生きとした芸能であったことがわかる。また、これらの世阿弥の著述は芸道論を超えて一種の人生論として読む読まれ方が現在あるが、このこともやや違う気がする。古典をどう読もうが自由だが、これらの世阿弥の著述をもっと当時の本来の位置で読んでみたい気がする。

収録作品

前置きはこのぐらいにして、まずはこの書の内容を以下に示す。

「風姿花伝」「至花道」「花鏡」「九位」「世子六十以後申楽談儀」が収録されている。その梗概は以下の通りである。

「風姿花伝」
後述
「至花道」
世阿弥が58歳のときに著した能楽論書。応永27年(1420年)成立。真実の能に到達するための正しい稽古法をおしえたもの。
「花鏡」
嫡子元雅に相伝された一巻。応永31年(1424年)成立。著者40歳以降の自身の思索の成果を収めたもの。
「九位」
成立年不明。仏教の九品になぞらえて能の芸の段階(芸位)を9段階に分けて示したもの。
「世子六十以後申楽談儀」
世阿弥の芸談を次男の元能が筆録したもの。能の歴史や、名人の芸風・逸話、能作・演出の要点などが語られている。

「風姿花伝」の内容

さて、ここでは「風姿花伝」を詳しく取り上げたい。

この書は父の庭訓をその都度書き止めたもので、この家の秘伝書となっている。内容は以下だ。

(「序」)
能風雅な神楽
「風姿花伝第一 年來稽古条々」
七歳・十二、三より・十七、八より・二十四、五・三十四、五・四十四、五・五十有餘
「風姿花伝第二 物學条々」
物真似の本質と限界。女・老人・直面・物狂・法師・修羅・神・鬼・唐事
「風姿花伝第三 問答条々」
九個の問と答え)観客の動静・序破急・自作自演・花能の命・慢心の恐れ・位について・言葉について・花のしおれ・花を知る
「風姿花伝第四 神儀云」
歴史的考察
「風姿花伝第五 奥儀讃歎云」
風姿花伝とはなにか。その風を得て、心より心に傳はる花なれば、風姿花傳と名附く。
「花伝第六 花修云」
謡曲の書き方良き能とは
「花伝第七 別紙口伝」
花とは何か・秘伝と花

まさに能という芸能をいかに他に負けないように演ずるかという一点に内容が絞られている。父観阿弥が早世したために息子の世阿弥がいわば必死に父に追いつくために努力し、またそれを後世に伝えようとした情熱が感じられる内容だ。

このことをよく示す一節を引こう。

「風姿花伝」の本文

問。ここに大いなる不審あり。はや却入りたる爲手の、しかも名人なるに、ただ今の若為手の、立合に勝つことあり。これ不審なり。
答。これこそ、先に申しつる、三十以前の時分の花なれ。古き爲手は、はや花失せて古様なる時分に、珍しき花にて勝ことあり。真実の目利きは見分くべし。さあらば、目利き・目利かずの、批判の勝負になるべきか。
 さりながら、様あり。五十以来まで花の失せざらんほどの爲手には、いかなる若き花なりとも、勝つことはあるまじ。ただこれ、よきほどの上手の、花の失せたる故に、負くることあり。いかなる名木なりとも、花の咲かぬ時の木をや見ん、犬桜の一重なりとも、初花色々と咲けるをや見ん。かやうの譬を思ふ時は、一旦の花なりとも、立合に勝つは理なり。
 されば肝要、この道は、ただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、もとの名望ばかりを頼まんこと、古為手のかへすがへす誤りなり。物数をば似せたりとも、花のあるやうを知らざらんは、花咲かぬ時の草木を集めて見んがごとし。万木千草において、花の色もみなみな異なれども、面白しと見る心は、同じ花なり。物数は少くとも、一方の花を取り窮めたらん為手は、一体の名望は久しかるべし。されば主の心には、随分花ありと思へども、人の目に見ゆるる公案なからんは、田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんが如し。
 また、同じ上手なりとも、その内にて重々あるべし。たとひ、随分窮めたる上手・名人なりとも、この花の公案なからん為手は、上手にては通るとも、花は後まであるまじきなり。公案を極めたらん上手は、たとへ能は下がるとも、花は残るべし。花だに残らば、面白さは一期あるべし。さればまことの花の残りたる為手には、いかなる若き為手なりとも、勝つ事はあるまじきなり。

「風姿花伝」の趣旨

これは「風姿花伝第三 問答条々」の一部だが、ここでも「花」という世阿弥にとっての重要な概念であることばが多用されている。「花」が能の命であることを述べている。ただ注目してほしいのは「立合に勝つ」という部分だ。質問は立合能でベテランに駆け出しの役者が勝つことがあるはどうしてかと言っている。

さて、立合能とは何か?能楽用語事典によれば

流派の異なる演者が同じ舞台に集い、芸を競い合って演じること。別々の曲で競演する場合と、同じ曲中で相舞する場合など様々な形がある。能が新しい芸能として興り、多くの座(芸能集団)が自らの名声を獲得すべく活動していたころ、立合は自らの命運を左右する真剣勝負の場であった。能の大成者といわれる世阿弥も、自身が著した能楽論書「風姿花伝」で、立合に勝つための心構えを述べ、後世に伝えている。

とある。

すなわち能は当時そういうものだったということだ。多くの座が競い合っていた勝負の場であったわけだ。その勝負の場でいかに勝つかというのがこの書の大きな目的だあったわけだ。そして肝心なのは「花」なのだといっている。しかしこの「花」には色々あり、若い為手が持っているのがいわば「時分の花」だ。これにはたとえ名望があっても「花」を失った古為手は敵わない。大事なのは「まことの花」なのだ。これが残っている為手はどんな若き為手にも勝つと言っている。そしてその「まことの花」には「人の目に見ゆる公案」が必要だと言っている。ここでいう「公案」とは元禅で謂う「課題」と謂うことだろうが、ここでは弛まぬ工夫と言ったらいいだろうか。しかもそれは「人の目に」見えなくてはならないとしている。これは観客ということだ。「目利き」という言葉を使っているがこれが「観客」だ。「花」とは目立つ良さといったらいいものだが、単にそれは「田舎の花・藪梅などの、いたづらに咲き匂はんが如し」としている。そうではなくて、観客にわかる工夫というものがなければ「まことの花」ではないというのだ。
ここでいかに世阿弥が観客というものを問題にしているかがわかる。実にビビットな論議である。

おわりに

この一文を読んだだけでもいかに当時の「能」が古典芸能と化した現在の「能」と違ったものかがわかる気がする。これは現在の「能」への言われなき小生の偏見かもしれないが。

今回はここまで。

2023.10.25